礼拝のメッセージ2004/6月分6/6(日)のメッセージ《委ねられた領域を守る》 第2コリント10:12~18 私たちの信仰の土台は、御言葉を土台にすべきであるが、救われる以前の古い知識とか経験に支えられて人生を歩んでいるのが現状である。 律法主義は、自分が認められて安心して生きていきたいという欲求と結びついているが、この律法主義を土台とすると、評価のこない奉仕はやりたくないということになり、同じことをするにしても、本当の意味での喜びとならない。 私たちは、隠れたところで私たちの奉仕をじっと見ておられる神様のことを意識しているかどうかで、永遠が決まっていく! 比較主義もまた、律法主義と関連した御言葉を土台とした生き方から外れているもので、「all or nothing」といった2元的な思考パターンで感情的に辛くなるものである。 今回は、境界線(boundary)についてがポイントである。 私たちは、自分の領域や限度を知るべきである。 この聖書の箇所で、パウロは自分の働きの領域を理解していた。 家と家との境界線というものが存在するし、私たちはそれぞれのpersonal spaceというものが存在する。これは、親近感が近いほど狭まってくるものであるが、自分を守っている領域もある。 子供は教えられたり叱られる中で、人格が成長していく。 自立とは、自律(⇒自分がしていいことと、そうでない線を理解している)ともいえる。 神様は、私たちにしていいこととそうでない境界線を、モーセの十戒という形で示された。だから、私たちは、神様が示された境界線を、御言葉と聖霊の導きによって知るべきである。 神様は、私たちを神様のみこころに従って共に働く場所へ遣わされるために再配置しようとなされている。真実なる神様に明け渡し、委ねていきましょう! 6/13(日)のメッセージ 《委ねられた領域を守る》 第2コリント10:12~18 私たちの信仰の成長を妨げるものとして律法主義があることを教えてきた。律法主義は比較主義の中で成り立つ。パウロは、律法主義の中で生きることを放棄した。 私たちも、他人と比べて落ち込んだり、他人より優位に立っていると考える生き方を捨て、神様から委ねられた働きをしていくことにFOCUSを当てていくべきである。 なぜなら、私たちの人生を評価してくださるのは、神様ご自身であるから。 ⇒神様を恐れ、神様に対して忠実であったかが、最後の審判の席に立たされたときに問われるのである。 前回の礼拝では、自分に委ねられた領域を知ることがテーマだった。 なぜなら、私たちが神様から与えられる領域は人それぞれに違うから、人と比べるということ自体がナンセンスだからである。 神様は、1つの領域から拡大していくという原則を持っている。宣教についても、同じようなことが言える。 あなたという一人の人を通して、領域を拡大していくことを通し、神様はあなたを祝福したいと願っておられる。 私たちには、5つの領域を神様から与えられている。 2.家族との関係の領域 3.教会における領域 4.仕事・事業、学校における領域 5.宣教の領域 この中で、特に神様との関係の領域を第1にすべきである。 なぜなら、神様との関係の領域を確かなものとしていくことによって、すべての領域が祝福されていくからである。 すべての祝福の源は、神様から出ている。 Remain&Go!(とどまり、そして出て行きなさい!) ⇒神様にとどまることからスタートである。 第1歴代誌4:9~10で出てくる「ヤベツ」は生まれてきた環境が母親の悲しみの中にあった。 しかし、ヤベツは信仰によって生き、神様に「自分の地境を広げてください」と期待して呼ばわった。 神様はヤベツの祈りに答えられて、彼の人生は祝福された。 神様に委ねられた領域が拡大して祝福され、神様の栄光をささげていくことを望むことに合意しましょう。 そうしなければ、実は何も進まない。 神様は現状の領域にとどまることを望んでおられるわけではない。 神様は、あなた方に委ねられている領域を拡大していくことで、この世にインパクトを与えていくことを願っておられる。 6/20(日)のメッセージ 《礼拝(賛美に勝利がある)》第2歴代誌20:14~26 一般の世間の人には分からないかもしれないが、教会の礼拝や行事で、賛美は欠かすことの出来ないものである。 賛美の起源は、旧約のアモツ書の時代から始まっているという。 アモツ書6:5「彼らは十弦の琴の音に合わせて即興の歌を作り、ダビデのように新しい楽器を考え出す。」 当時使われていた楽器は、管楽器、弦楽器、打楽器だったとか・・・ 第2歴代誌のこの箇所では、ヨシャパテのもとに3つの軍隊が攻め込んで見た瞬間に「もうダメだ!」という状況で意気消沈していた。 しかし、そのような状況の中で「これはあなた方の戦いではなく、神の戦いだ。(神様の方法で)出陣しなさい」という御声によって、ヨシャパテらは励まされ、主にひれ伏して礼拝した。 私たちは、まず神様の前にへりくだって神様を礼拝する必要がある。 エペソ6:12では、「私たちの戦いは血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」と書かれている。 ヨシャパテらは、主に向かって賛美して士気を高め <b>「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」 と賛美の声を上げ始めたときに、主は伏兵を設けて敵を打ち負かし、挙句の果てには見方同士の殺し合いとなって、ヨシャパテらは自分たちの手を使わずに勝利を得た。 賛美には、私たち一人ひとりに癒や解放を与える力がある。 日々の生活の中で、嫌なことがあって賛美なんてとても出来ないと感じているときでも、神様に向かって賛美していくときに、自然と心の中にあるモヤモヤとした嫌な思いからも解放され、心には平安がやって来る。これこそが勝利の秘訣である。 主に新しい歌を歌え。 聖徒の集まりで主への賛美を。 イスラエルは、己の造り主にあって喜べ。 シオンの子らは、己の王にあって楽しめ。 踊りをもって、御名を賛美せよ。 タンバリンと竪琴を奏でて、主に誉め歌を歌え。 主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しいものを飾られる。 聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。 己の床の上で、高らかに歌え。 彼らの口には、神への称賛、彼らの手には、諸刃の剣があるように。 それは、国々に復讐し、国民を懲らすため、 また、鎖で彼らの王たちを、鉄の枷で彼らの貴族たちを縛るため。 また書き記された裁きを彼らの間で行うため。 それは、全ての聖徒の誉れである。 ハレルヤ!」 詩篇149編 6/27(日)のメッセージ この箇所は、「悲しみ」という名をつけられたヤベツが、主に呼ばわってその祈りに答えられて大いに祝福されていったことが書かれている。 そこに、私たちの祈りのポイントがある。 私たちは、祝福だけを追求するのではなく、神様ご自身を求め、神様に呼ばわるべきである。 では、なぜ私たちの中に祝福がこないのか? 3つのパターンがある。 1 悪魔は私たちが祝福されることを喜ばない。 それどころか、私たちに与える祝福を奪っていってしまう。 ヨハネ8:44⇒悪魔は「偽りの父」であり、 その言ったことは実体がないから保証がない。 だから、私たちは常に悪魔に対してしっかりと目を覚ましているべき。 私たちが真理の中に入っていくとき、悪魔がどれほど私たちから多くの ものが奪われてきたのかを悟ることが出来る。 真理に従うことは、決して簡単ではない。(狭い門から入る) しかし、そこには神様しか与えることができない人生がある。 2 自分自身の中に、神様の恵みと祝福を妨げるものがある場合 なぜなら、人間は自分が信じていること以外のものを受け入れないから 私たちは、内なる誓いや偏見・誤解をいろいろ持っているために、神様 が与えようとしている祝福・恵みを受け取れないし、恵みの拡大に制限 を設けてしまうどころか、他人に対してまで線引きしてしまう。 挙句の果てには、信仰に立てないときに、それを言い訳にしてしまう。 3 動機が間違っているために、神様が止めようとしている場合 民数記22:21~35では、偽預言者バラムがバラク王のイスラエル 攻略の目的で買収され、神様から「行くな」と示されたにも拘わらず、 ロバに乗って出かけ、神様を見ていたロバがバラムとしゃべった記事が出ている。 バラムは途中でロバを3度叩いたが、実はバラムが立ち向かっていたのはロバではなく神様だった。 バラムは、与えられていた預言という賜物を、営利目的で使っていたために、神様を見ることが出来なかったし、この教訓を生かせなかったことで、最終的には殺されてしまう。 神様は、領域を拡大していくための吟味する知恵を祈り求めていくことを願っておられる。 |